三顧の礼、赤壁の戦い、甘露寺の宴、出師の表、空城の計、五丈原など数々の名場面を1m20cmの大型人形が演じる三国志作品の決定版
■第一幕 三顧の礼より赤壁の戦いまで
中国は後漢末。乱れに乱れた国を憂い人々を苦しみから救おうと志す劉備玄徳は、心を同じくする関羽、張飛と義兄弟の契りを交わし群雄が覇権を争う中原へと躍り出た。・・・・・三顧の礼をもって迎えられた諸葛孔明は、天下三分の計を進言した。
208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと7月に50万の兵を率いて南下を開始した。一方、江東に勢力を伸ばしていた孫権は、この報に驚き、文官武官を集めて、降伏するか戦うかの会議を始めた。文官のほとんどは降伏を主張していたが、そのころ劉備の軍師だった諸葛亮が訪問し、魯粛も主戦論に偏っていたためにこれを利用し、孫権の説得を始める。兄孫策の義兄弟でもある周瑜も後からやってきて主戦論を主張したために孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決める。このとき孫権は自分の机を刀で切りつけ、「これより降伏を口にした者は、この机のように斬り捨てん」と言ったという。当初、周瑜は魏に降伏する考えであったが、諸葛亮から曹操が作った詩で「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻)を欲しがっていると聞かされ、怒って孫権に対して戦うようにと主戦論を主張した。
両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、周瑜は計略を使い、荊州水軍の要である蔡瑁を謀殺する。蔡瑁謀殺後に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和に対して偽情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。そして、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。また、火計を効果的にするために、当時在野にいた龐統を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のためにと船同士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積んだ船に火をつけさせ火計を実行、「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。
■第二幕 出師の表から五丈原まで
大敗を喫し病に倒れた劉備玄徳の遺言を枕元で聞いているのは、かつて劉備玄徳自信が三顧の礼をもって迎えた孔明である。 蜀では関羽、張飛もすでに亡く、劉備が蜀の未来を託した孔明は劉備の息子劉禅を皇帝の位につけ、関羽の息子の関興、張飛の息子張苞らがこれを支えていく。 魏の曹操もすでに世を去り、弱年の曹叡が後を継ぎ、名将司馬懿仲達がこれを助けている。 孔明と仲達、二人の知略戦略が火花を散らす。仲達の率いる大軍が、わずかな兵の残る孔明の城に攻め寄せてくる。孔明は部下にすべての城門を開けさせ、自分は城壁の上で悠然と琴を弾きはじめた。攻め込もうとした仲達は戸惑った・・・・"孔明に策あり"仲達は全軍を退却させた。孔明の〝空城の計〟である。やがて、孔明は自ら陣頭にたって劉備の悲願であった天下統一と漢室再興のために、魏討伐の兵を挙げる。出陣に際し、孔明は劉禅に上奏文を奉呈する。世に名高い出師の表である。



























【1】劇団影法師と、揚州人形劇団との出会いは、3年前の1988年10月になります。日中平和友好条約締結10周年を記念して、国際交流基金と日本航空助成のもと中国文化部招聘による訪中公演で、北京、唐山、天津、南京、上海、と中国各地を歴訪の中、江蘇省揚州市にある揚州人形劇団を表敬訪問、その際、日中合作合同公演についての提案、合意がなされました。それ以来、実現へ向けての準備が開始されました。

【2】1989年1月29日劇団影法師代表の山崎靖明が再度中国を訪れ、意向書を交換し両国の製作スタッフ決定等、具体的打ち合わせに入りました。


【3】3月6日脚本家ジェームス三木氏、演出家小森美巳氏、人形美術家川本喜八郎氏、山崎靖明による最初の企画打合せ等が、行われました。

【4】3月28日揚州人形劇団の人形製作担当封宝義氏が来日、最初の人形製作打合せが行われました。

【5】9月20日揚州市にて日中合作大型人形劇「三国志」の正式調印が行われました。
6月中国北京市にて天安門事件が発生した時には、合作合同公演に対する影響など心配されましたが、両国スタッフの合同公演に対する熱い思いと、中国文化部のご協力により当日は、中国文化部芸術局の馮樹竜先生、江蘇省文化庁外事副長庄林先生、揚州市文化局副局長周衛国先生の同席をいただき、日中合作大型人形劇「三国志」の正式調印が揚州人形劇団唐宝林団長と劇団影法師代表山崎靖明との間で調印され、合作合同公演の成功に向かって友好協力の固い握手がかわされました。



【6】9月14日から3週間の日程で、三国志の日本側スタッフが揚州市を訪れ、揚州人形劇団の製作スタッフとの打合せが行われました。そこでは早速、ジェームス三木氏の脚本や、川本喜八郎氏のプランによる試作人形を中心に活発な意見の交換が行われ、今回の三国志の人形劇としての様式については、中国の古典的な京劇的な様式にこだわらず、また文楽とは違った、日中合作ならではの新しい人形ドラマを創りあげようという方向での意見の一致をみました。
そして人形美術の川本喜八郎氏、佐藤三郎氏は1カ月間揚州市に滞在して揚州人形劇団の製作スタッフと一緒に三国志の人形製作にとりかかりました。このため日本から人形製作に必要な材料などが運びこまれましたが、特に人形衣装に使用する和服生地は100kgを超える量となりました。川本氏、佐藤氏の帰国後も、揚州人形劇団のすぐれた技術を持つ製作スタッフの手により着々と作業は進められました。



【7】10月5日中国での話合いをもとに、ジェームス事務所にて2回目の企画会議が開かれました。

【8】11月30日中国側作曲家金復載先生が来日され、日本側作曲家小森昭宏氏と打合せが行われました。

【9】1990年1月10日人形美術最終仕上げのため川本氏が再び揚州人形劇団を訪れ、ここに総数60体に及ぶ英雄、豪傑達が誕生しました。





【10】1月19日日本から小森昭宏氏と、小森美巳氏が上海を訪れ、金復載先生と合流、中国上海映画交響楽団と中国上海映画民族楽団による演奏が録音されました。総数60人のオーケストラによる演奏は、中国大陸を思わせる雄大で且つ心の奥底に響き渡る素晴らしいものになりました。特に胡弓、琵琶、簫などの中国独特の民族音楽の第一人者による演奏の録音は日本では不可能であり、中国での録音の成果によるものと思われます。

【11】2月10日から2日間に渡り、演劇集団・円の俳優人によるセリフどりが行われました。(岸田今日子、三谷昇、有川博、橋爪功他総勢20名)さらに、日中合同稽古のために中国語での吹き替えも収録されました。




【12】2月23日中国での合同稽古のため、小森美巳氏と劇団影法師演技者が一ヶ月間の日程で揚州人形劇団を訪れました。




【13】4月3日中国から中国側製作の総重量およそ2tにのぼる人形60体、大道具、照明機材などが到着。それと共に、日本側の照明機材、舞台枠組等、人形手直しを含む最終チェックがなされました。
